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ボヤーリン (防護巡洋艦) : ミニ英和和英辞書
ボヤーリン (防護巡洋艦)[かん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
防護 : [ぼうご]
  1. (n,vs) protection 
巡洋艦 : [じゅんようかん]
 (n) cruiser
: [かん]
  1. (n,n-suf) warship 

ボヤーリン (防護巡洋艦) : ウィキペディア日本語版
ボヤーリン (防護巡洋艦)[かん]

ボヤーリンロシア語:バヤーリン)は、ロシア帝国の二等防護巡洋艦()である。艦名は先代のコルベットから受け継いだもので、中世ルーシ世襲貴族ボヤーリン」に由来している〔キエフ・ルーシ時代から大貴族を意味する階級名称であったが、特にモスクワ大公国(のちロシア・ツァーリ国)では、社会階層ではなく貴族会議ボヤールスカヤ・ドゥーマ)の最高仕官位に組み替えられており、日本語文献では「会議貴族」とも翻訳されている。軍艦の名がどの時代の「ボヤーリン」を想定しているかは不明であるが、艦の建造時期から考えれば、モスクワ大公国式の「会議貴族」であると考えるのが妥当である。なお、「ボヤーリン」は単数形で、階級そのものを表す場合は複数形の「ボヤーレ」()を用いる。〕。ロシア帝国海軍では珍しい、デンマーク製の軍艦である。''バヤーリン)は、ロシア帝国の二等防護巡洋艦()である。艦名は先代のコルベットから受け継いだもので、中世ルーシ世襲貴族ボヤーリン」に由来している〔キエフ・ルーシ時代から大貴族を意味する階級名称であったが、特にモスクワ大公国(のちロシア・ツァーリ国)では、社会階層ではなく貴族会議ボヤールスカヤ・ドゥーマ)の最高仕官位に組み替えられており、日本語文献では「会議貴族」とも翻訳されている。軍艦の名がどの時代の「ボヤーリン」を想定しているかは不明であるが、艦の建造時期から考えれば、モスクワ大公国式の「会議貴族」であると考えるのが妥当である。なお、「ボヤーリン」は単数形で、階級そのものを表す場合は複数形の「ボヤーレ」()を用いる。〕。ロシア帝国海軍では珍しい、デンマーク製の軍艦である。
== 概要 ==
ボヤーリンは、二等防護巡洋艦ノヴィークジェームチュクイズムルートとともに極東方面の艦隊戦力増強のために計画された艦であった。建造は
太平洋の必要のための」特別建艦計画によって行われた。
艦の任務は、艦隊の近距離偵察とされていた。設計は、棚式から吊り下げ式に変更された120 mmおよび47 mm砲弾庫と新しい給弾用エレベーターシャフト、電線通路の気密水密覆い、鉛張りケーブルの採用、などの点に先進性が見られた。
1900年8月24日コペンハーゲンのブルマイスター&ヴァイン社(現MAN B&W ディーゼル社)で起工した。1901年5月26日には進水1902年10月に竣工した。
1902年10月27日、ボヤーリンはクロンシュタットを出航し、1903年5月10日ポルト=アルトゥールへ到着した。1903年秋には仁川に出航し、一等防護巡洋艦ヴァリャーグを支援して同港に1904年1月1日まで留まった。
1904年1月27日〔当時ロシアで使用されていたユリウス暦による。現代のグレゴリオ暦では2月9日になる。〕、偵察任務に就いていたボヤーリンは戦艦三笠旗艦とする日本海軍主力艦隊を発見した。ボヤーリンは左舷方向に移動しながら応戦しつつ、味方艦隊へ敵艦隊発見の報を知らせた。
日本艦隊による旅順艦隊攻撃が終わると、ボヤーリンは大連湾へ機雷を敷設に向かう機雷敷設艦エニセイを護衛し、それから旅順に戻った〔日露旅順海戦史、30ページ〕。エニセイは機雷の敷設を行ったが、1月29日に自艦が敷設した機雷に触れて沈没した〔日露旅順海戦史、30-31ページ〕。このエニセイの沈没は日本軍の機雷または駆逐艦によるものと誤認され、大連警備司令官は日本軍駆逐艦出現を報告。それを受けてボヤーリンと駆逐艦ヴラーストヌイ、フヌシーチェリヌイ、ストロジェヴォーイ、ラストロープヌイが大連湾へ向かうよう命じられた〔日露旅順海戦史、31ページ〕。ボヤーリンと4隻の駆逐艦は1月29日午後3時30分ごろに旅順から出撃したが、同日午後5時ごろに南三山島南方沖で機雷に触れた〔日露旅順海戦史、32ページ〕。触雷による浸水で15度傾斜するも沈没はしなかったが、ボヤーリン艦長サルイチェフ大佐は乗員を退去させて駆逐艦にボヤーリンの処分を命じた〔。そして駆逐艦ストロジェヴォーイがボヤーリンに対して魚雷を発射したが命中せず、ボヤーリンは放置された〔。翌日南三山島に座礁しているところが発見され修理可能と判断されたが、翌日は荒天のため作業が行えず、その翌日には姿を消していた〔日露旅順海戦史、32-33ページ〕。暴風により流されて再度触雷し沈没したようであり、住民が数度の爆発音を聞いている〔日露旅順海戦史、33ページ〕。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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